天笠書房

魔導書工房の見習い日誌

8話 未来の設計図

 夜半、千尋がふと目を覚ましたとき、病室は暗かった。その日は月の光が強くて、蒼白の中に白梅がぼうっと浮かぶ。ゆきの置いていった紙の花は、月の明かりを透かして輝いているように見えた。

 弱いまばたきを幾度か繰り返して、千尋はその花をじっと見ている。刹那、枝についたうちの一輪が、ぱっと粉々に砕けた。かと思うとそれは輝く銀の粉となって窓台に落ちていく。未明に松の葉へ積もった粉雪が、自らの重みで滑り落ちるようだった。

 まだ東の空から昇り始めたばかりの冬の陽が、降ったばかりの雪に輝きを振りかけていた朝を思い出す。そのささやかな煌めきを目に映しながら、千尋は、初めて触れた魔法がこれなら良かったのにと思った。街を凍らせる呪いでもなく、目の前で弾けた花火でもなく、ただ雪のように消えた紙の花がいい。でも、そうではない。そして、それを願うだけの資格も千尋にはない。



 世の中にはどうにもならないことと、どうにかなることがあって、千尋の周りに山積した問題の多くは前者だった。日ごと減っていく白梅は残り一輪。花の落ちるのを止めることができないように、千尋は故郷を忘れる日にどうしようもなく近付いていく。

 結局花の落ちる瞬間を見られたのは、あの一夜のみだった。たった一度だけだったが、あれに魔力があったのだろうか、以来千尋は故郷の夢を見ることがなくなった。そうすると、日に日に郷愁を抱くことも減って愛惜も薄れていく。もうあの街が元のようには戻らないというのならと、それらすべてを忘れることを受け入れ始めてもいた。心の傷に蓋をしている日々は、不意に触れる未来の喪失から得た寂寥のほかには何もない、穏やかなものだった。これは瘡蓋と同じで、不用意に触れてしまえば血を流す。だから、千尋はだんだんと、静かに未来を受け入れるようにしていた。

 魔道士協会の職員は数日おきに千尋を訪ねた。罪人に接する割に、説教じみたことを言わないのが不思議だったが、よくよく考えれば今後魔法を使うことのない少年に魔法の扱いや禁忌を解いても仕方がない。今後すべてを忘れる千尋に対して、彼らは優しかった。その理由さえ考えなければ、頼る相手のいない千尋にとっては良き隣人でさえある。

「今後のお話をします。千尋君の血縁関係にあたる方が見つからず、協会としてはひとまず意向をお聞きしたいということで、そちらの担当を連れて参りました。福祉関係になりますので、我々は管轄外ということですね。ただ、話し合いには同席させていただきます。少し窮屈かもしれませんが、よろしいですか」

 逸脱対策課に所属する四十代の職員は、以前にもあったことがある。今日も片瀬という女性職員を連れていて、その他に二人――これはどちらも女性だったが片方は若く、片方は中年というのは似通っていた――の職員も共にいた。

「千尋君、初めまして。私たちは、千尋君の今後の暮らしを一緒に考えるために来ました。時間はあるから、ゆっくりと考えていきましょう。よろしくお願いします」

 やはり年配の職員がほとんど喋って、若い方は会釈や最低限の挨拶だけだった。

「お金の心配は、まだしなくていいんだよね」

 と、女は言う。

「千尋君は十四歳で、四月から中学三年生になるでしょう? 中学までは義務教育だから、学費の心配は必要ないの。千尋君みたいに被災して一人になってしまった子供たちを支援するための基金っていうものもあるし、ほかにも千尋君を助ける仕組みは沢山ある。だから、自分が一番選びたい未来を選んで良いんだよ」

「……はい」

「ということで、じゃあまず、新しいお家について相談しようか。今日決めなくてもいいから、これを見てくれる?」

 クリアファイルに収まった何枚ものカラーパンフレットを差し出され、千尋はひとつずつ手に取って、紙を捲りながら話を聞いていた。

「これは、施設のパンフレット。この街の……榊ヶ原の施設のものを選んできたけど、もしも他に希望があったら用意するから言ってね。ああ、それ――そこは千尋君くらいの、十代の子たちが多いんだ。高校生や、いまは大人だけど一緒に暮らしてお手伝いしてくれる子もいるの」

「そうなんですか」

「そう。千尋君、自分よりも年下の子たちと、同じくらいの年の子たちとだったら、どっちと暮らしたいかな。こっちはね、小学生くらいの子が多いの。でも設備が新しいし、部屋は個室なんだよ――」

 職員の開いたパンフレットから、飛び出す絵本のように立体映像が浮かび上がった。それは、光の粒子を寄せ集めて出来た施設の模型で、触れれば壁が消え、精巧に再現された内部の様子が文字通り手に取るようにわかる。

「わ……」

「ああ、すごいでしょう? これも魔法なんだよ」

「はい……どうやってこんな魔法……」

「うーん、仕組みはわからないな。私はあんまり魔法が使えるわけじゃないから。でも、役所仕事の事務員ってそれでも困らないし……そうですよねえ」

 振り返って、女は逸脱対策課の職員に聞いた。男の方が「そうですね」と微笑む。

「まあ、我々は採用枠が違いますので、ある程度魔法を扱えないことには……」

「ああ、そうですよね。事務屋さんは違うでしょう?」

 事務屋とは、事務仕事を専門的に扱う職員のことを指す俗語だった。大抵、採用のときに大まかに事務か技術かの専門が決まる。

 時折談笑を交えながら、女は千尋に話を続けた。千尋が思案するようなら慎重に言葉を待ち、何か聞こうとする素振りはどこまでも鋭敏に察する。大らかさの中にある隙のなさは経験に裏打ちされたものだろう。

 開いたパンフレットは、模型を映さないまでも、時折花や蝶が舞ったり、良い香りのする風が吹いたりした。ささやかな魔法たちが、千尋の未来を提案している。それらを代わる代わる眺めながら、千尋はその日のうちに自分の入る施設を決めた。

「――ありがとう。こちらで千尋君の希望として把握しておきます。でももし、別のところがいいと思ったり、もっと他の場所も見てみたいと思ったら言ってね。まだ時間はあるから」

「はい。でも、たぶん変わらないですよ」

「そう? ……実はちょっと意外だなと思ったの。この施設はお部屋が広いのが良いところだけど、その分人も多いでしょう? 勝手にだけど、千尋君は静かな方が好きなんじゃないかなって思ってたから」

「大勢と仲良く、っていうのは苦手です。でも人が多かったら……俺ひとりくらいは、居ても居なくてもいい存在になれると思ったので」

 素っ気なく答えて、千尋は窓辺に置いた白梅を見る。花がもっとついていた頃には、それぞれの形というのは気にならなかったが、この一輪だけになってしまうと花弁の形や筋の入り方に至るまで――それこそ人工物であるから観察するほどよくわかるのだった――が目に入る。もし自分がこの白梅だったのなら、輪郭に色合いまでじっと観察されるのは御免だと思った。人の多い施設を選んだのは、そういう理由だ。

 千尋の言葉には水底に沈むような冷たい諦念がある。職員の女は少しだけ眉を下げて、短い沈黙のあとにそっと口を開いた。

「……千尋君。どんなところにも、千尋君の居場所はあるよ。これからも、千尋君は誰かの大切な人になれるし、誰かが千尋君の大切な人になる。それができるだけ沢山のものになるといいなって、私たちは思っている」

「……なくても、俺は平気ですよ」

 ぞんざいに拒絶した千尋は、本当に自分の居場所は人と人との間になくてもいいと思った。人間関係にうんざりしていたというより、本当にそれで平気だと思っていた。元々、大事にされていたなんて感じたことはあまりない。誰かを大切にできたと思ったこともないのだ。皮肉でも、なんでもなく。

「そっか。あの、でもね、千尋君が平気じゃないと思ったときからでも、誰かと繋がっていくことを諦めないで。これは覚えていてほしいな」

 遅すぎる、なんてことはないんだから。僅かな抵抗のように彼女はそう言って、今日のところは帰ると告げた。

「パンフレットは置いていくから、好きに見ていいよ。開くだけでも楽しいものだってあったからね」

 努めて明るく笑って、四人が連れ立って病室から去って行く。誰もいなくなった後で、特に今までの時間を気詰まりに思っていたわけではないが、千尋は深く息を吐いていた。ゆっくりとパンフレットを重ね、端を揃えてファイルに挟む。

 施設に入るとき、千尋は自分でこの施設を選んだことは覚えていないのだという。それは、雪車浦や魔法に関する記憶を消すにあたって必要な処置で、表向きは――そして千尋の認識上もだが――魔道士協会の決めた施設に入ったということになる。足の包帯が外れて、歩けるようになったら千尋は、災害によって両親と記憶の一部を失って施設に入った、孤児になるのだ。

 指先が痺れたように、少し震えた気がした。だが、千尋は新しい施設と学校、生活を想像して痺れから意識を逸らす。窓は南向きだった。いちばん陽が差す時間、千尋はたいてい学校にいるだろう。施設の近くには小さなパン屋があるらしく、もし自由になるお金があったら放課後にパンを買ってみたい。新しい学校は買い食いを禁止しているだろうか――……。

 考えを巡らせているうちに意識が虚ろになり、うとうとと舟を漕ぐ。そのとき、カーテン越しに見えた人影で千尋ははっと身体を強張らせた。


2023.7.15更新分はここからです。