天笠書房

魔導書工房の見習い日誌

9話 再訪

 カーテン越しに見えた人影で千尋ははっと身体を強張らせた。

「…………」

「……千尋君? 水無月です。いまよろしいですか?」

 そっと発された声は、千尋に梅の造花をくれた、あの人のものだった。一度目は知人のいる病室だと思って入ってきた彼女と、また会えるとは思っていなかったのでにわかに驚く。

「……だ、大丈夫です。どうぞ」

「ありがとうございます、こんにちは」

 また来ると思っていなかったでしょう、とゆきは微かに笑った。

「こんにちは。あの、知り合いの人は……?」

「ああ、それはもういいんです。今日は少し、千尋君と話がしたくて」

 ゆきは側にあったスツールをベッドに寄せて、そこに座った。畳んだコートと鞄を膝に置いて、そこに軽く腕を乗せる。ぴんと伸ばされた背筋が綺麗だった。

「俺と……」

「大したことではありませんよ。身構えていただかなくて結構です」

「えっと、何の話ですか?」

「千尋君のお名前です」

 手帳と万年筆を取り出したゆきは、そこに『天野千尋』と書いた。あの銀の煌めきが、ゆきの字によって綴られた自分の名前を輝かせる。突然に自分の名前を書かれた経験なんてない。やはり不思議な人だと思っていると、ゆきは徐ろに口を開いた。

「綺麗なお名前だな、と思いました。『チヒロ』のほかに『センジン』という読みをするのはご存知ですか?」

「あ、えっと、千尋の谷、とか」

「素晴らしいですね。言葉に親しみのある暮らしを送ってこられた方のようです」

「本は好きですけど、素晴らしいとかは別に……」

「本……なるほど、道理で。ああ……これは、きわめて深い、あるいはきわめて高いことを表わす言葉です。名字の由来はさておき、天に野と書いて姓とし、そこに深さや高さを表わす名がある。広大な夜空が思い浮かばれる、素敵なお名前だと思いました」

「……いや、千尋って、よくある名前じゃないですか」

 ゆきは慈しむように微笑んで「いけませんか」と言った。

「あなたの名前は一つだけでしょう。それが美しいと思ったのなら、私は言葉にしてあなたに伝えることを躊躇いません」

「……じゃあ、それを伝えるために、また来たってことですか?」

 まさか、という含意とともに聞けば、ゆきは逡巡の末に「実は」と口を開く。何か他の用があるのだろうか。

「これも本心ではありますが、以前訪れたときに千尋君の周りにほとんど物がなかったので、もしかしたらあまりお見舞いの方がいらっしゃらないのかと。すみません、ご不快に思われたら……」

「いえ、実際そうです。俺、親も友達も……ここに来られないので。そんなことがわかるのってすごいですね、探偵みたい」

「ただの邪推です。……人は歳を重ねるごとに孤独を愛せるようになりますが、千尋君くらいの歳は大抵、まだ孤独は毒としての色が濃い。だから、気掛かりでした。私があなたにできることは、と考えて、話相手は要るだろうかと、足を運んでしまったということです」

「……優しいんですね」

 ゆきはすぐに「いいえ」と答える。謙遜ではない、有無を言わさないものがあった。

「理由は沢山あります。伝えそびれた話もあって、気掛かりで、それから、私はあなたの返してくれる言葉や、ささやかな魔法に向ける目にまた出会いたかったんです。だから、動機はきわめて利己的です」

 ふと視線がテーブルの上に移り、ゆきは施設のパンフレットたちをそっと示した。

「それ……」

「……ああ、施設の資料です。さっきまで見てて。もうどこにするか、決まったんですけど――……」

「見てもいいですか?」

「あ、どうぞ……」

 彼女の言葉は居たって真面目で、気遣いらしきものではなさそうだった。白い指が素早く、しかし丁寧にパンフレットたちを探って、一枚取り出す。

「珍しいですか、こういうの。普段どこかに置いてあるものなのか、俺は知らないんですけど」

 帰る家がないことを不思議がられたくなかった。可哀相だと思われるのはもっと嫌だった。出来るだけゆっくりと、のんびりと鈍感なふりで話しながら、千尋は必死に普通を装うとしていた。自分は気にしていません、平気です、と態度で語ろうとする。

 ゆきは何でもない顔で応えた。

「普段はあまり見ませんが、施設がどういう場所かは、わかります。私も五歳までは施設にいました。もう随分と記憶も薄れてしまって……ああ、ここにはありませんね。もう無くなってしまったのかもしれません」

 その答えが意外で、千尋は目を見開いた。一方でゆきはパンフレットを広げて、光の粒子が作る施設の模型を見ている。

「あの……」

「この魔法、面白いですね」

「え? あ……すごい、ですよね? 仕掛け絵本が進化したって感じで」

「ええ。パンフレットに使われている紙は一般的なコート紙のようですが、この魔法を描くのに必要なインクが使える印刷機でもあるということでしょうか。性質上、印刷には不向きで量産に使えるインクではなかったと思うのですが……」

 ゆきは紙を目の高さまで持っていったり、傾けたりしながら観察して、滑らかに話始めた。

「……紋章らしい描き込みがない。ああ、これ……」

「水無月さん?」

「すみません、専門分野なので少しのめり込んでしまって。千尋君は、この魔法の仕組みに興味がおありでしょうか。よろしければ、少しお付き合いいただきたいのですが」

 専門分野、と聞いて千尋は数度瞬きをした。

「それは、気になりますけど……。水無月さんの専門分野って、魔法なんですか? そもそも水無月さんって、何をしている人なんですか……っていうのは、聞いたら失礼か……」

「学生です。専門は書物魔法という魔法で、その仕組みを大学で学んでいるんです。私から、名前しかお伝えしていませんでしたね。大変失礼いたしました」

「それ言ったら、俺も名前しか言ってないですから……。こちらこそすみません」

「そういえば、私は千尋君のことをそれなりに知っている気になっていましたが、年齢やどこから来たのかは聞いていませんね」

 それは千尋にとって、あまり答えたくない質問だった。正確には「正直に答えたくない」質問だ。年齢はまだいい。どこから来たのか、言えばゆきは何かを察するだろう。そして軽蔑するかもしれない。怖がって離れていくかもしれない。

 本当は正直に答えるのが誠実だ。それでも千尋は躊躇ってしまう。