天笠書房

魔導書工房の見習い日誌

7話 歳寒三友

 魔道士協会は、千尋に一つの魔法道具を与えた。首にめられた銀色の輪は細身で、外側はつるりとしているが、内側には細かな刻印と象嵌ぞうがんがなされている、一見よくできた装飾品だった。

 しかし、刻まれているのは魔力の流れを封じる魔法。つまり、千尋に魔法を使わせないための首輪だった。魔法の使い方など知らないが、確かに無意識に危険な魔法を使うのなら制御しなければならないだろう。

 目覚めてから六日。千尋は病室で浅い眠りについていた。千尋はこの病院にいながら、遠くから音が聞こえるようになる。それは時にチャイムで、時に聞き覚えのある談笑で、時に母の声だった。

 声がする。音がする。暗い視界と重い身体で、ただ音たちを受け止める。それから、千尋は周囲に人の気配を感じ始める。様子を見に来た保険医、席に戻る人々、起こしに来た母。起きて、彼らと話がしたいと思う。その姿を見て、すべて元通りになったと確かめたい。そう思うほどに、千尋の身体は意思通りに動かなくなる。

 そうして、ようやく身体を跳ね起こすと、人の気配のない病室がそこにあるばかりで、間近にあった懐かしい――もはや懐かしいと思い始めていた――気配はどこにも消えてなくなる。悪夢より余程、この方が堪えた。そうして深夜も、早朝も、真昼も、何度も微睡みと覚醒を繰り返して、千尋は疲弊しきっている。そうして迎えた何度目かの覚醒は、陽の沈みかけた頃のことだった。

「……あの」

 見覚えのない女が、千尋を驚いたように見ている。飛び起きた病人に驚くのは当然だったが、この部屋に医師と、昨日訪れた魔道士協会の人間以外がいるのは初めてだったので、千尋も驚いていた。数拍おいて、心臓が大きく動き出す。

 女は若かった。手には、包装紙に巻かれた花を抱えている。数本の枝に小さな花が咲いていて、誰かの見舞いに来た、というような出で立ちだった。

 長い黒髪はよく手入れされているらしく艶やかで、肌は血色の透けるような白。黒縁の眼鏡を掛けていて、美醜の判断に自身のない千尋でも「綺麗だ」と思えた。それは常に手入れされている庭であったり、本棚に並ぶ本たちが皆同じ高さで、埃も積もっていなかったりする、そういう整頓されたとでも言うべき美しさだった。

 彼女は畳んだコートを片腕に抱え、少し戸惑ったように千尋を見ている。

「お休みのところ、すみません。起こしてしまいましたか」

 やや申し訳なさそうに、起伏の少ない声が尋ねた。

「……いや、良くない夢、見てただけなので」
「……左様ですか」

 女は逡巡の末、千尋にもうひとつ尋ねた。

「こちらに入院していた方は、もう退院なさったんでしょうか。その人のお見舞いに来たのですが、いま何処かに行っているというよりは、誰も使っていない……というように見えて」

 どうやら彼女は、知人のお見舞いに来ていたようだった。だが、千尋しかいないので困っていた。折良く千尋が目を覚ましたので事情を尋ねた、というところだろう。

「すみません、俺にはわからないです。五日くらいは、ここには俺一人なので」
「そうですか……」
「もしかしたら、部屋を移ったのかも……」

 千尋は今、大災害を引き起こした犯罪者だった。他の病人と同じ部屋には入れておけなかったのかもしれない。だから、千尋を入院させるために病室を移された、ということは十分に考えられる。

 言い淀んだ千尋に、女は小さな声で零す。

「……もうすぐ、面会の時間は終わってしまいますので、これから探すつもりはないのですが」
「……そう、ですよね」
「よろしければ、こちらの花を貰っていただけませんか?」

 差し出されたものをよくよく見れば、それは梅の枝の造花だった。真っ直ぐに細い枝に、真白な梅花を咲かせている。

「え…………」

 困惑した千尋に、相手は素早く、しかし静かに返す。

「お見舞いに、いつまでも枯れない造花や、弔いを思わせる白い花は不向きとされますよね。……すみませんでした」
「あ、いや、違います。それは知らなくて……」

 咄嗟に出た言葉に、相手は軽く目を見開いた。黒縁眼鏡の、そのガラスを隔てた先で彼女の感情が僅かに動いたのがわかる。

「……偶然いただけの俺なんかが貰っていいのかなって、それだけ」

 あと、花瓶もないし。そう言えば、相手は黙ってその梅の枝を窓辺に置いた。枝を包んでいた白い包装紙がひとりでに形を作り、細身の花瓶となる。

「花瓶ならご心配はいりません。……そうですね、この造花は三日ほどで花がなくなります。散らずに、もっと細かに砕けていつの間にかなくなっている。そういう魔法を掛けてあるからです。朽ちる様子がなく、それでも変化のある花なので、造花でもお見舞いには適している……と評されています」

 飾られた梅の花は、斜陽を透かして緋色になる。

「梅ならば紅梅もありますが、白梅の楚々とした雰囲気は気持ちを落ち着かせてくれると……よく言っていたものですから、喜ぶと思ったので白を。それから、そうですね……歳寒三友という言葉をご存知ですか」

「いや……」

 鞄からメモ帳と万年筆を取り出して、女はそこに「歳寒三友さいかんさんゆう」と綴った。ダークグレーのインクは紙に色を載せてから徐々に細かな煌めきを浮かび上がらせるという、不思議な仕様だったので千尋はそれをじっと見つめる。

「松竹梅、これを歳寒三友さいかんさんゆうと言います。古くから中国で親しまれた画題です。松と竹は寒い冬の中でも色褪せることがなく、梅花は冬を越えて春の先触れとして花開く。厳しい環境にあっても不変であるもの、強く在るもの、それらを友としていたいものだ……そういう意味合いがありますね」

 どうぞ、と文字の書かれた紙きれを渡される。

「病と闘う人にとって、友となり得る、相応しい花だと思います。……どうでしょう」

「えっ、勉強に……なりました……?」

 千尋が首を傾げると、相手は軽く目を細めた。微笑みだと理解するのに数秒要する。そして、気付いた頃には氷の張った湖のように淡い青色の瞳に溶けている感情の一欠片を掬い上げることに夢中になっている。そうさせる、不思議な求心力のある相手だった。

「……もし、あなたの気持ちが少しでも動いたのなら、この花はあなたの病室を飾る理由を得たと信じて良いかと、そう思ったのですが」

 おまけに、随分変なことを言う人だ。整った顔から紡がれる声が、淀むことなく楚々として言葉を紡ぐ。小説をそのまま人の形にしたら、きっとこんな姿でこんな言葉を喋るのかもしれない。呆気にとられながら、千尋は応える。

「信じて、良いんじゃないですか……?」

「良かった。意見が合いましたね」

 女は確かに微笑んで、彼女の黒髪がわずかにこぼれる。

「私は水無月ゆきと言います。あなたのお名前を伺っても?」

「……俺は、天野千尋です」

「千尋君。今日はありがとうございました。それでは、今度はゆっくり眠れますように。失礼しますね」

 女――ゆきは丁寧に頭を下げて、病室から出て行った。それからすぐに、暗くなり始めた薄暮の病室に灯りが点る。ぱっと白んで明るくなった視界で、千尋は触れれば崩れそうな梅の花の紙細工を見た。淡く、白く、柔らかそうな花を見て、千尋はまた目を瞑る。

 どちらが夢で、どちらが現かわからない。そう思うほど、ひどく穏やかな気持ちだった。


2023.7.9更新分はここまでです。ありがとうございました。