魔導書工房の見習い日誌
4話 魔法の世界
無数の細い糸が身体から生えていて、それらを天井からそっと引かれる。そんな感覚が何度もあるのに、その度に糸を引かれるままに身を起こそうとすればぷつぷつと途切れるから、身動ぎ一つ叶わない。水の中で藻掻くようなもどかしさの中、千尋はついに瞼の開き方を思い出した。
見知らぬ景色だった。カーテンは外の光をしっかりと遮っていて、昼か夜かはわからない。設備ですぐに病院と推測はついたが、酷く重い頭に巡らす思考はそこまで冴えなかった。何故病院にいて、どこの病院にいるのか。雪車浦にある病院は一つだけだったが、千尋はそこに入院したこともないので、雪車浦かどうかさえ判別が付かない。
「……目を覚ました」
小さく呟く声で、側に他人がいると気付いた。顔もよく見えないまま、他人の手がナースコールを押す。寝返りを打とうとしたとき、千尋は自分の手足が思う通りに動かないことを――拘束されていることをようやく知った。
曇天から真白な灰のように、牡丹雪が落ちてくる。風がほとんどない冬の空を舞い、街を霞ませる。その白んだ大気の中に浮かぶ大樹の影。人はその大樹を世界樹と呼ぶ。
千尋は病室の窓から、降り続く雪と世界樹を眺めていた。目を覚ましたときから数えて五日、雪車浦中学の図書室前で意識を失ってから数えれば凡そ一か月が過ぎようとしている。
千尋は目覚めたとき手足を拘束されていたが、それが解かれた今でも足は動かない。掛布の下で包帯に巻かれた足は、治療とリハビリによってまた動くようになると聞いた。だが現状は、寝返りを打つのも辛い。足が動かないと寝て過ごすこともままならないのだと初めて知った。
四人分の病床をカーテンで仕切る共用の病室だったが、いまは千尋しか使っていない。目覚めたときにはそうだったので、元々病人の少ない病院なのか、千尋の周囲に人を置けなかった――そして個室は空いていなかった――からなのかは判断できなかった。目覚めたときに拘束されていた理由を未だ聞いていないが、そんな措置は危険と判断した相手にするものではないか、ということくらい察しが付いている。
ふと、病室の扉を三度ノックする音がした。千尋は緩慢な動作で入り口に目を向ける。しばらくの沈黙のあと、またノックの音がして、千尋は少しだけ迷った末に「どうぞ」と小さな声で応えた。
入ってきたのは男女二人組で、ダブルボタンの黒いロングコートを制服のように着ていた。男の方が四十は超えているといった風貌で、女の方はもっと若い。二十代前半くらいに見える。
「失礼します」
いかにも人当たりの良さそうな柔らかい声で、男が言う。女はやや緊張してそれに続いた。
千尋のベッドの側まできた二人は、改めて名前を伝えて、名刺をテーブルに並べた。
『魔道士協会 危機管理部 逸脱対策課』
二人の肩書きは共通していて、千尋がじっとその綴りを眺めていると、男がやんわりと微笑んだ。
「肩書きが仰々しくて可笑しいでしょう。魔道士協会、ということだけ覚えていただけたら十分です」
「肩書き、なんですか……? 面白いのか、よくわからないです。すみません」
「ああ、すみません。冗談のつもりはありません。そうですね、千尋君は――……失礼ですが、名前でお呼びしてもよろしいですか?」
「それは、好きにしてください」
「では、千尋君は……ニーズヘッグ・エリアの出身でしたね、というご確認から致しますね」
「……ニーズヘッグって、神話の?」
はい、と男は応える。冗談のつもりはないと言っていた。
「ニーズヘッグとは北欧神話の蛇の名前です。世界樹ユグドラシルの根を噛む、巨大な蛇。現実にそのような大蛇がいるという話ではないのですが……魔力が滞留しない土地を、その蛇の名前を借りて呼んでいます」
「…………」
「千尋君の住んでいた雪車浦地区は、そのニーズヘッグ・エリアの境界内に作られた地区でした。魔道士協会に馴染みがないのも無理はありません。ニーズヘッグ・エリアには魔道士協会の出先機関もないことでしょうし」
「…………あの、さっきから、冗談じゃないって言いますけど」
千尋の低い呟きに、男は軽く眉を上げた。
「――魔法、魔法って、冗談にしか聞こえないです。世界樹っていう木は、なんなんですか。魔道士ってなんですか。魔法って、何かのテクノロジーですか」
高度に発展した科学は、魔法と区別が付かないのだという。人は時々、存在し得ない幻想の世界の言葉を使って現実を賛美する。そういう言葉はよく目にしてきた。彩りの魔術師だとか、音の魔術師だとか、何かに秀でた人をそう呼称することがあるのも馴染みがある。
しかし、空を飛ぶ、虹を架ける、時を止める。そんな本物の「魔法」があるとは思えなかった。だから、目の前の大人が当たり前のように語る「魔法」の意味がわからない。大真面目に魔法の話をする大人なんて、見たことがなかった。
男の後ろで、女が驚いたような顔をしていた。それから、手元の手帳に慌てて沢山書き込み始める。彼女は千尋と上司の会話の記録簿を取っているらしい。
「……千尋君は、魔法とはどういうものだと思いますか」
男が穏やかに問う。それがわからないから聞いているのに、と千尋は言葉を詰まらせた。
「わかりません……」
「そういう言葉を聞いたことは?」
「あ、ありますけど……それとは違うんじゃないですか、だって――……」
そうですよ、と遮ってもらえると思っていたのに男は真剣な眼差しで千尋の言葉を待っている。
「………あの」
「ええ、どうぞ。だって、の先の言葉を知りたいんです」
「……魔法は、フィクションでしょう。空を飛んで、雪を降らせて、時間を止めて……そんなことが出来たらいいっていう空想」
見知らぬ景色だった。カーテンは外の光をしっかりと遮っていて、昼か夜かはわからない。設備ですぐに病院と推測はついたが、酷く重い頭に巡らす思考はそこまで冴えなかった。何故病院にいて、どこの病院にいるのか。雪車浦にある病院は一つだけだったが、千尋はそこに入院したこともないので、雪車浦かどうかさえ判別が付かない。
「……目を覚ました」
小さく呟く声で、側に他人がいると気付いた。顔もよく見えないまま、他人の手がナースコールを押す。寝返りを打とうとしたとき、千尋は自分の手足が思う通りに動かないことを――拘束されていることをようやく知った。
曇天から真白な灰のように、牡丹雪が落ちてくる。風がほとんどない冬の空を舞い、街を霞ませる。その白んだ大気の中に浮かぶ大樹の影。人はその大樹を世界樹と呼ぶ。
千尋は病室の窓から、降り続く雪と世界樹を眺めていた。目を覚ましたときから数えて五日、雪車浦中学の図書室前で意識を失ってから数えれば凡そ一か月が過ぎようとしている。
千尋は目覚めたとき手足を拘束されていたが、それが解かれた今でも足は動かない。掛布の下で包帯に巻かれた足は、治療とリハビリによってまた動くようになると聞いた。だが現状は、寝返りを打つのも辛い。足が動かないと寝て過ごすこともままならないのだと初めて知った。
四人分の病床をカーテンで仕切る共用の病室だったが、いまは千尋しか使っていない。目覚めたときにはそうだったので、元々病人の少ない病院なのか、千尋の周囲に人を置けなかった――そして個室は空いていなかった――からなのかは判断できなかった。目覚めたときに拘束されていた理由を未だ聞いていないが、そんな措置は危険と判断した相手にするものではないか、ということくらい察しが付いている。
ふと、病室の扉を三度ノックする音がした。千尋は緩慢な動作で入り口に目を向ける。しばらくの沈黙のあと、またノックの音がして、千尋は少しだけ迷った末に「どうぞ」と小さな声で応えた。
入ってきたのは男女二人組で、ダブルボタンの黒いロングコートを制服のように着ていた。男の方が四十は超えているといった風貌で、女の方はもっと若い。二十代前半くらいに見える。
「失礼します」
いかにも人当たりの良さそうな柔らかい声で、男が言う。女はやや緊張してそれに続いた。
千尋のベッドの側まできた二人は、改めて名前を伝えて、名刺をテーブルに並べた。
『魔道士協会 危機管理部 逸脱対策課』
二人の肩書きは共通していて、千尋がじっとその綴りを眺めていると、男がやんわりと微笑んだ。
「肩書きが仰々しくて可笑しいでしょう。魔道士協会、ということだけ覚えていただけたら十分です」
「肩書き、なんですか……? 面白いのか、よくわからないです。すみません」
「ああ、すみません。冗談のつもりはありません。そうですね、千尋君は――……失礼ですが、名前でお呼びしてもよろしいですか?」
「それは、好きにしてください」
「では、千尋君は……ニーズヘッグ・エリアの出身でしたね、というご確認から致しますね」
「……ニーズヘッグって、神話の?」
はい、と男は応える。冗談のつもりはないと言っていた。
「ニーズヘッグとは北欧神話の蛇の名前です。世界樹ユグドラシルの根を噛む、巨大な蛇。現実にそのような大蛇がいるという話ではないのですが……魔力が滞留しない土地を、その蛇の名前を借りて呼んでいます」
「…………」
「千尋君の住んでいた雪車浦地区は、そのニーズヘッグ・エリアの境界内に作られた地区でした。魔道士協会に馴染みがないのも無理はありません。ニーズヘッグ・エリアには魔道士協会の出先機関もないことでしょうし」
「…………あの、さっきから、冗談じゃないって言いますけど」
千尋の低い呟きに、男は軽く眉を上げた。
「――魔法、魔法って、冗談にしか聞こえないです。世界樹っていう木は、なんなんですか。魔道士ってなんですか。魔法って、何かのテクノロジーですか」
高度に発展した科学は、魔法と区別が付かないのだという。人は時々、存在し得ない幻想の世界の言葉を使って現実を賛美する。そういう言葉はよく目にしてきた。彩りの魔術師だとか、音の魔術師だとか、何かに秀でた人をそう呼称することがあるのも馴染みがある。
しかし、空を飛ぶ、虹を架ける、時を止める。そんな本物の「魔法」があるとは思えなかった。だから、目の前の大人が当たり前のように語る「魔法」の意味がわからない。大真面目に魔法の話をする大人なんて、見たことがなかった。
男の後ろで、女が驚いたような顔をしていた。それから、手元の手帳に慌てて沢山書き込み始める。彼女は千尋と上司の会話の記録簿を取っているらしい。
「……千尋君は、魔法とはどういうものだと思いますか」
男が穏やかに問う。それがわからないから聞いているのに、と千尋は言葉を詰まらせた。
「わかりません……」
「そういう言葉を聞いたことは?」
「あ、ありますけど……それとは違うんじゃないですか、だって――……」
そうですよ、と遮ってもらえると思っていたのに男は真剣な眼差しで千尋の言葉を待っている。
「………あの」
「ええ、どうぞ。だって、の先の言葉を知りたいんです」
「……魔法は、フィクションでしょう。空を飛んで、雪を降らせて、時間を止めて……そんなことが出来たらいいっていう空想」