天笠書房

魔導書工房の見習い日誌

3話 願うなら

「魔導書、みたいだよね」

 万里の言葉にはっと顔を上げれば、彼女は輝きを宿した瞳を細めて微笑んでいた。そういう空想は馬鹿馬鹿しいと思う。魔法なんて架空のもので、いくら似せても魔導書なんてものはあり得ないからごっこ遊びに過ぎない。それでも、千尋は頷いた。存在しないものに憧れること、それを口に出すことを笑われずに分かち合える彼女を好ましく思っていた。

 それから、そっと沈黙が下りる。互いに本を読んで、火であたたまるだけの時間が過ぎた。千尋は借りた本を読み進めるうち、不意にこの時間が終わらなければいいと思う気持ちが擡げて、それ以降進まなくなった。

「……これさ」

 まだ正午より前。一日の終わりは先だった。それでも千尋は今が終わって次に待つ、うんざりするような現実に迫られているような気がした。それに圧されてぼんやりとする意識の中で口を開く。

 万里は本から視線を上げて、千尋の横顔を見た。

「魔法が使えるようになるっていう話みたいだけど」

「うん」

「もし魔法が使えるなら、何がしたい?」

「えっ、珍しいね。千尋君がそういう話してくれるのって」
「目が疲れたから休憩ついでに」

 誤魔化したのは気付かれていないだろうか。万里は首を傾げ、また反対に傾げ、しばらく悩んだあとに「空を飛ぶ?」と答えた。

「それだけ?」

「えーっと、あとは……魔法で誰かの怪我を治したり、光る花を咲かせたり……? あとは怪物と戦って町を守ったり! 誰かに喜んでもらえること、出来たら格好いいよね」

「人のことばっか」

 万里らしい、と思って千尋は少しだけ笑った。万里は気恥ずかしそうに「千尋君は?」と問う。

「私にばっかり聞いて狡いよ」
「俺……俺は――いま、この時間が終わらないようにする」

 図書室がしんと静まった。遠くにあったはずの吹奏楽部の音、運動部の走る足音がドアの向こうで響いているのが聞こえ始める。万里は目を丸くして、真意を探るように千尋を見たが、彼の目がどこを見ているでもなく虚ろなことに気付いてはっとした。


「……嫌なこと、あった?」

「…………」

「私にできることって、あるかな」

「…………」

 千尋は沈黙した。大丈夫だと言えば、きっと万里は「そっか」と聞き分けのいい振りをするだろう。「勘違いか、良かった」と笑うと思う。だが、千尋は中々「大丈夫」と言い出せなかった。「帰りたくない」と言ってみたくなった。それで困らせるだけだと気付いても、しばらく悩んでしまうほどに。

 このまま時が過ぎて、家に帰って、千尋は「もう放っておいてくれよ」と声を荒げた相手と同じ部屋にいなければいけなくなる。干渉を拒みながら、母の作った食事を食べて、わかりやすいほど千尋を怒らせた話題を避ける母に油断したところで、風呂上がりあたりに父から呼ばれるのだろう。最後には、父から説得されて、千尋は皆が認めるところの「可哀相な子」になる。

 ぐっと握った拳を緩く振って、万里に向ける。それに気付いた万里は驚いて、細い肩を一瞬震わした。千尋はおもむろに口を開く。

「……じゃんけんぽん」
「えっ、あっ?」

 万里が慌てて出した手はグーで、固く握られている。千尋はチョキを出していた。

「……あーあ、不意打ちしたのに負けた。喉渇いたから外の自販機行ってくるよ。何飲みたい?」
「……私が負けたら私に買わせるつもりだった?」

 きょとんとしていた顔からだんだんと状況を理解して、万里は呆れたように笑った。千尋は安心して「そうだよ」と立ち上がる。

「じゃあ一番高いやつ! 私、自販機に何あったか覚えてないんだよね」
「一番高いのは、よくわからないスポーツドリンク。二百円で、色は多分ピンク」
「多分って何?」
「あれは蛍光ピンクというのかもしれないし、紫というのかもしれないって意味の『多分』」
「い、要らない……」

 引き攣った顔の万里に、千尋は吹き出した。

「あったかいのはミルクティーとコンポタ、あとお汁粉にほうじ茶と……」
「えっ、全部覚えてるの?」
「……まあ」
「本当に?」
「……うん」
「じゃあミルクティー。……でも図書室、飲食禁止だよ」
「それなら飲むときだけ外出るか。廊下寒いから、コート用意しといて」

 はぁい、と万里は笑った。千尋はコインケースをポケットに突っ込んで外に出る。扉を開けると、人のいる気配が一気に濃くなった気がする。管楽器の大音量に、運動部の掛け声。まるで放課後のような空気が、冬の午前の校舎に充ちていた。

 学校の敷地内に自動販売機はないが、裏門から出てすぐの小さな商店の前にいくつかの自動販売機が並んでいる。中学校から近いということもあって、昼休みにこっそり買いに出る生徒や放課後に立ち寄っておしゃべりしている生徒は少なくない。千尋はそのどちらでもないし、利用することも多くなかったが、一度見たものは忘れない。人より少し優れた記憶力で、そこに並ぶ品揃えはすべて覚えていた。

 もう一年の暮れだというのに、夏に入った炭酸飲料がまだ売れ残っている。何ヶ月も代わり映え無く、売り切れのランプも長らく消えない。果汁ゼロパーセントでオレンジ味の炭酸飲料缶が売り切れていても、千尋は特に困らないから気にしていないが。

 上手く話を逸らせただろうか。万里は多分、同年代の子供たちよりずっと察しが良い。他人の機微を読み取ることに長けていて、しかしそれを悟らせないほど機転が利く。もしかしたら、千尋が孤立していること、その惨めな事実にも気付いているのかもしれない。



 ただ、彼女が核心に辿り着かないうちはこのままで居たかった。本当に久しぶりに、何の気兼ねもなく冗談を言い合える友人と出会えたのだから。亀裂の入った薄氷の上で、いつ冷たい湖水に落ちるとも知れないのに進み続けているような心地で、それでも落ちる時まで足を止められないでいる。



 図書室まで戻りながら、やはりこのまま時が止まらないだろうかと千尋は思った。現状の打開は必要だろうか。しばらくやり過ごせば開放されるものに、敢えて立ち向かって自分をすり減らすのは、本当に自分のためなのだろうか。

 止まれ、と半ば本気で祈りながら、千尋は図書室の扉に手を掛けた。建て付けが急に悪くなったのかと思うほど、不自然なくらい扉が重くなっている。訝りつつ手にぐっと力を込めたとき、甲へひやりとしたものが触れた。僅かに開いた隙間から、白く凍った冷気がこぼれているのだ。

「……え?」

 軋む音を立てて、冷気が足元から侵してくる。気付いたときには両の足が動かなくなっていた。気が付けば、ドアに手を掛けた手にも霜が降りている。

 人の身体が凍てつくところなど、千尋は見たことがない。十四年で培った常識をもっても、暖房の効いた室内で突然扉も床も、人の肌さえ凍っていくのはあり得ないと思った。――扉の外に、冷気が漏れ出している。ならば、中は?

「……っ、万――……」

 友人の名前を呼ぼうとしたとき、千尋の意識は途絶えた。