魔導書工房の見習い日誌
13話 折り紙の睡蓮
二月も半ば。千尋はこの頃になってようやく再び歩き始める練習を始めた。足は痛むというよりも、自分のものではなくなったかのように力が入らなかったり、かと思えば急激に冷たくなったりした。
「魔法による効果ですね」
「……そう言われました」
病室を訪れていたゆきは、千尋の足について多少の覚えがあるらしい。千尋が主治医から聞いた話をそっくり話すと、それをすぐに理解してくれた。
「魔法による怪我は厄介だと聞きますね。専門外ですから、あまり確かな話ではありませんが――……。千尋君の足の場合、本当に足が凍っていく……だとか」
「本当に凍る……」
「皮膚に霜が下り、酷いときは全身が凍ります。外部からあたためる、お湯に浸かるといった処置では気休めにしかなりません。魔法は魔法によってしか打ち消すことができませんから」
「……魔法が勝手に解けることは? それまで、耐えていれば助かったりしないんですか」
千尋の脳裡には一縷の思いがあった。長い冬を耐えれば春が来るように、雪車浦の吹雪もいつかふっと解けて、皆が元通りになるのではないか。その思いを想像する由もないゆきの答えは淡々としている。
「あまりに弱い魔法でしたら、あり得ます。ですが、大抵は魔法より先に人間の身体に限界が来る。そもそも一度芯まで凍った人間を五体満足に生かすほど、純粋な医術は進歩していません」
偶然にもゆきの出した例は、逃げようのないほど的確に雪車浦の人々の遠からぬ未来を示していた。伸ばしかけた手が届くはずのないことを知って、千尋は恥じ入るような気持ちでそっと手を引き戻す。
「強い魔法だと、他の魔法でも打ち消せなかったりは――……」
「そうですね、あり得ます。あるいは、難解な魔法。寄せ木細工のからくり箱をご覧になったことはありますか?」
「え? いや、ないです……」
唐突に問われて千尋は目を丸くする。ゆきは軽く逡巡して、鞄に手を突っ込んだ。まさかその寄せ木細工のからくり箱とやらが出てくるのかと思ったが、流石にそんなことはなかった。彼女が取り出したのは、一枚の真っ白な折り紙だ。
「目を閉じていてください。思うに、千尋君は目が良いですから」
「どうしてそう思うんですか?」
「一度見たものをかなり正確に覚えているでしょう。これは、そうやって覚えられると都合が悪いので」
「……水無月さんも、人のことよく見てますね」
「ええ、まあ」
千尋が目を閉じると、ゆきはまた話し出す。きっと彼女は手元で紙を折っているのだろう。微かにその音がする。
「寄せ木細工のからくり箱というのは、箱根のお土産で有名な品物です。決まった手順で開けないと中身に辿り着けない、パズルのようなものですね。私が言いたいのは、つまり複雑な仕組みを持つものは時として壊さずに分解することさえ難しいということです。魔法も同じですが……さて」
目を開けてください。そう言われてそっと瞼を持ち上げると、ゆきはこの短い時間で紙一枚からこれを作ったのかと疑うほど見事な紙の睡蓮を千尋に差しだしていた。
「千尋君、これを破くことなく一枚の紙に戻してみてください」
「……折るよりは簡単だと思いますけど」
「どうでしょう」
軽く微笑んだゆきは膝に乗せた両手でそっと指を組み、千尋を見守る。千尋がこわごわと折り紙の睡蓮のいたるところをつまんだり引っ張ったりしてみても、折り目がするりと解けることがないまま時間だけが過ぎていった。
おそらくここだ、と思ったところを強く引っ張ったらついに紙は破れ、その音がやけに大きく聞こえた瞬間に千尋の手は止まってしまった。
「あっ」
「ふふ、難しいでしょう」
ゆきは千尋から折り紙を受け取ると、難なくそれを一枚の紙にもどした。千尋のつけた破れあとが残っている。
「……このように、綺麗に解くということは難しい。魔法も同じです。未知の魔法、複雑な魔法はすぐに解くことは出来ない。私は折り方を知っていますから、逆算の要領で解き方もわかりました」
「魔法を掛けた人にしか解けないものもある……?」
「はい。古くから言われる話ですが、そういうものも少なくはないですよ。千尋君の足は軽傷だったので既にある魔法で対処できたと言われたそうですね。つまり、もっと進行していたら治せなかったかもしれない、ということです。……この状態の折り紙なら元に戻すのも容易いでしょう」
何回か折りたたんだ白い紙を、更に畳むと先程の睡蓮に戻る。千尋はそれをぼんやりと見ながら、雪車浦を思った。
「良かったですね、軽症で。足も元どおり動くようになるんでしょう」
「はい。俺は……良かったと思います」
「……あなた以外の誰かが、あなたの無事を喜ばないみたいな言い方」
千尋はぎょっとしてゆきの顔を見上げた。一方彼女は、訝るでもなく静かに千尋を見ていた。時々ゆきは何を考えているのかわからない表情をすることがあって、千尋の隠している一切を見抜いているような、何の意味も持っていないようなことを言う。そういう時、千尋は答えに困って黙るのが常だった。
「私は、嬉しいですよ」
「……あ、えっと、ありがとうございます」
「私は魔法が好きなので、千尋君にとっても魔法は自らを苦しめるものではなく、明日を生きるための光のようなものになってほしいと思っています。……なくても生きてゆけないわけではないけれど、それでも明日も生きていくことが少しだけ楽しみになる。楽しみでなくとも、わずかに受け入れやすくなる。そういうものになれば、幸いです」
ゆきは折り紙の睡蓮を指先で軽く弾いた。すると、真っ白な紙の花は淡い芳香を散らして小さな蝶たちに変わり、羽ばたいて消えていった。
「……魔法みたい」
「ええ、書物魔法です。千尋君にも使える魔法ですよ」
軽く笑って、ゆきは肩を竦める。
もし、ゆきが「やってみましょうか」と一言言えば千尋は頷いてしまっただろう。だが、魔法使いにはならないと言ったのを覚えていたのか、ゆきはそれ以上千尋に魔法を使わせようとはしなかった。取り留めもなく会話をして、時間が流れる。
ふと会話の途切れ目に「そういえば」と千尋は言う。
「俺の包帯の下に入墨みたいな模様が入ってたんです。それも書物魔法なんですか」
ゆきは事も無げに頷いた。
「ええ、原理はそうですね。分類としては医療魔法になりますから、書物魔法士がそういった施療をすることは法律で禁じられていますが……ある程度熟達した書物魔法士なら模様を見て読み解くことは可能かもしれませんね」
「じゃあ、水無月さんはわかりますか?」
「どうでしょう。千尋君の足に描かれた魔法はもう消えているのでは」
「そうですけど、紙に書いたのを見せるのは問題ないんじゃないですか?」
いつもゆきが千尋に出題する。たまには、千尋から問いを投げてみたかった。少しでもこの人を驚かせたくて、千尋は紙に自分の足を治した魔法を記憶から書き写していく。
「湿布を貼るのに似てて、面白いですよね」
「……ええ、そうですね」
「最初、本当に入墨なんだと思ってちょっとショック受けました」
「それはないでしょう」
驚いていたせいか反応の鈍かったゆきが、ようやく笑う。
「基本的に身体に魔法を刻むことはありませんね。怪我をするたびに身体に模様が増えるのは、少し嫌ではありませんか?」
「……かなり嫌です」
「ふふ。そうですよね。それに、身体に魔法を刻めば効果は基本的に永続します。寒いからといって身体を温め続けたらかえって害になるように、得もそれほど無いのです」
止まない吹雪に覆われた町が頭を過ぎったが、一度それを打ち消すように千尋は書き上げた魔法――だったもの――をゆきに差し出した。ゆきは目を丸くしてそれを見る。
「足の模様は包帯で隠れていたのでは?」
「一度見れば十分なんです。……水無月さん、気付いてると思ってたんですけど」
「まさかここまでとは……。千尋君は、視覚情報に関して完全記憶能力を持っているんですね」
紙に再現された魔法を見て、ゆきは本当に驚いている声で呟いた。
千尋は一度その目で見たものを忘れない。自動販売機の並びから、一度買ったジュース缶の裏の商品表示。複雑な模様であっても――再現の巧拙は措いて――完全に記憶する。学校の試験のほかで役立った覚えはないが、ゆきの驚いたような反応は見られて良かったと思う。
「……羨ましいです、とても」
「そんなに役に立ちませんよ。頭が良いわけでもないので」
「書物魔法は非常に多くの模様、画材、製本方法を組み合わせて作り出す魔法です。腕の良い職人ほど知識は豊富といいますが、すべてを完全に記憶できているわけではありません。ですから大抵、新たに魔法を考える時は自身で書いた帳面や参考図書などをいくつも参照して、長考するものです。それでも記憶の引き出しから漏れた知識が盲点となることも多く……。ですから、千尋君のその能力は書物魔法士にとって間違いなく垂涎の代物ですよ」
ゆきは眼鏡を掛け直し、千尋の描いた魔法を眺めていた。もうすっかり書物魔法士の目になって、千尋はそれがなんだか酷く緊張した。まるで素人の自分が書いた魔法を茶化さず真剣に見られていると思うと落ち着かない。
しばらくして、ゆきは読み解いた魔法をひとつずつ千尋に教えた。これは何の魔法で、どれが力の調節で――そうして一通り話し終えたあとで「よく描けています」と微笑む。それで千尋は、心からほっとして嬉しくなる。
「……」
「ふふ、嬉しそう」
「……いま、馬鹿にしました?」
心の中を見抜かれたようで照れくさい。露骨に嫌そうな顔をする千尋を相手に、ゆきはにこやかだった。
「とんでもない。評価を喜べるのは、仕事に真摯であった証左です。私は誠実な職人が好きなので、千尋君にその素養があることが嬉しいんですよ」
「仕事でもないし、俺は職人にならない……」
唸るように千尋が言い返すが、ゆきはどこ吹く風だった。
「中途半端にした結果が絶賛されても、相手を騙しているような気分になりませんか?」
「どうだろう……騙してるっていうのは、すごく善意の考え方ですよね。俺はそんなに良い人じゃないから、『何も見てないんだな』って思いますよ。ああ、俺に興味ない人だ、って」
すみません、と千尋は続きを断ち切る。これでは「もっと自分をよく見て」と言うのと同じだ。だが真実そのとおりで、千尋は平気だと言うのを信じてほしかったし、触れないでほしいものは放っておいてほしかった。ただ、それを他人に曝け出してしまうのはあまりに幼い衝動だろう。
ゆきは静かに千尋へ視線を向けた。真っ直ぐ、笑うでも怒るでもなく真剣な顔をしているので千尋の背筋が自然と伸びる。小さな、しかしよく通る声が言葉を紡いだ。
「…………見ていますよ。私だけではなく……あなたを大切に思う人は、みんな彼らなりにあなたをよく見ている。あなたに余計なお節介をする人も、少なからずあなたを蔑ろにしているだけではないでしょうから」
それこそ、私のように。ゆきは少し決まり悪そうに笑って小首を傾げる。
そうだとしたら。千尋はうっすらと考える。
そうだとしたら、千尋を可哀相な子供にしようとした両親の頑なな態度の、あの聞く耳を持たない静かな暴力のような言葉の中にも、愛はあったのだろうか。長い冬のような学生時代を、ただ只管にやり過ごそうと決めていた千尋の信念の中にも、間違いはあったのだろうか。
「魔法による効果ですね」
「……そう言われました」
病室を訪れていたゆきは、千尋の足について多少の覚えがあるらしい。千尋が主治医から聞いた話をそっくり話すと、それをすぐに理解してくれた。
「魔法による怪我は厄介だと聞きますね。専門外ですから、あまり確かな話ではありませんが――……。千尋君の足の場合、本当に足が凍っていく……だとか」
「本当に凍る……」
「皮膚に霜が下り、酷いときは全身が凍ります。外部からあたためる、お湯に浸かるといった処置では気休めにしかなりません。魔法は魔法によってしか打ち消すことができませんから」
「……魔法が勝手に解けることは? それまで、耐えていれば助かったりしないんですか」
千尋の脳裡には一縷の思いがあった。長い冬を耐えれば春が来るように、雪車浦の吹雪もいつかふっと解けて、皆が元通りになるのではないか。その思いを想像する由もないゆきの答えは淡々としている。
「あまりに弱い魔法でしたら、あり得ます。ですが、大抵は魔法より先に人間の身体に限界が来る。そもそも一度芯まで凍った人間を五体満足に生かすほど、純粋な医術は進歩していません」
偶然にもゆきの出した例は、逃げようのないほど的確に雪車浦の人々の遠からぬ未来を示していた。伸ばしかけた手が届くはずのないことを知って、千尋は恥じ入るような気持ちでそっと手を引き戻す。
「強い魔法だと、他の魔法でも打ち消せなかったりは――……」
「そうですね、あり得ます。あるいは、難解な魔法。寄せ木細工のからくり箱をご覧になったことはありますか?」
「え? いや、ないです……」
唐突に問われて千尋は目を丸くする。ゆきは軽く逡巡して、鞄に手を突っ込んだ。まさかその寄せ木細工のからくり箱とやらが出てくるのかと思ったが、流石にそんなことはなかった。彼女が取り出したのは、一枚の真っ白な折り紙だ。
「目を閉じていてください。思うに、千尋君は目が良いですから」
「どうしてそう思うんですか?」
「一度見たものをかなり正確に覚えているでしょう。これは、そうやって覚えられると都合が悪いので」
「……水無月さんも、人のことよく見てますね」
「ええ、まあ」
千尋が目を閉じると、ゆきはまた話し出す。きっと彼女は手元で紙を折っているのだろう。微かにその音がする。
「寄せ木細工のからくり箱というのは、箱根のお土産で有名な品物です。決まった手順で開けないと中身に辿り着けない、パズルのようなものですね。私が言いたいのは、つまり複雑な仕組みを持つものは時として壊さずに分解することさえ難しいということです。魔法も同じですが……さて」
目を開けてください。そう言われてそっと瞼を持ち上げると、ゆきはこの短い時間で紙一枚からこれを作ったのかと疑うほど見事な紙の睡蓮を千尋に差しだしていた。
「千尋君、これを破くことなく一枚の紙に戻してみてください」
「……折るよりは簡単だと思いますけど」
「どうでしょう」
軽く微笑んだゆきは膝に乗せた両手でそっと指を組み、千尋を見守る。千尋がこわごわと折り紙の睡蓮のいたるところをつまんだり引っ張ったりしてみても、折り目がするりと解けることがないまま時間だけが過ぎていった。
おそらくここだ、と思ったところを強く引っ張ったらついに紙は破れ、その音がやけに大きく聞こえた瞬間に千尋の手は止まってしまった。
「あっ」
「ふふ、難しいでしょう」
ゆきは千尋から折り紙を受け取ると、難なくそれを一枚の紙にもどした。千尋のつけた破れあとが残っている。
「……このように、綺麗に解くということは難しい。魔法も同じです。未知の魔法、複雑な魔法はすぐに解くことは出来ない。私は折り方を知っていますから、逆算の要領で解き方もわかりました」
「魔法を掛けた人にしか解けないものもある……?」
「はい。古くから言われる話ですが、そういうものも少なくはないですよ。千尋君の足は軽傷だったので既にある魔法で対処できたと言われたそうですね。つまり、もっと進行していたら治せなかったかもしれない、ということです。……この状態の折り紙なら元に戻すのも容易いでしょう」
何回か折りたたんだ白い紙を、更に畳むと先程の睡蓮に戻る。千尋はそれをぼんやりと見ながら、雪車浦を思った。
「良かったですね、軽症で。足も元どおり動くようになるんでしょう」
「はい。俺は……良かったと思います」
「……あなた以外の誰かが、あなたの無事を喜ばないみたいな言い方」
千尋はぎょっとしてゆきの顔を見上げた。一方彼女は、訝るでもなく静かに千尋を見ていた。時々ゆきは何を考えているのかわからない表情をすることがあって、千尋の隠している一切を見抜いているような、何の意味も持っていないようなことを言う。そういう時、千尋は答えに困って黙るのが常だった。
「私は、嬉しいですよ」
「……あ、えっと、ありがとうございます」
「私は魔法が好きなので、千尋君にとっても魔法は自らを苦しめるものではなく、明日を生きるための光のようなものになってほしいと思っています。……なくても生きてゆけないわけではないけれど、それでも明日も生きていくことが少しだけ楽しみになる。楽しみでなくとも、わずかに受け入れやすくなる。そういうものになれば、幸いです」
ゆきは折り紙の睡蓮を指先で軽く弾いた。すると、真っ白な紙の花は淡い芳香を散らして小さな蝶たちに変わり、羽ばたいて消えていった。
「……魔法みたい」
「ええ、書物魔法です。千尋君にも使える魔法ですよ」
軽く笑って、ゆきは肩を竦める。
もし、ゆきが「やってみましょうか」と一言言えば千尋は頷いてしまっただろう。だが、魔法使いにはならないと言ったのを覚えていたのか、ゆきはそれ以上千尋に魔法を使わせようとはしなかった。取り留めもなく会話をして、時間が流れる。
ふと会話の途切れ目に「そういえば」と千尋は言う。
「俺の包帯の下に入墨みたいな模様が入ってたんです。それも書物魔法なんですか」
ゆきは事も無げに頷いた。
「ええ、原理はそうですね。分類としては医療魔法になりますから、書物魔法士がそういった施療をすることは法律で禁じられていますが……ある程度熟達した書物魔法士なら模様を見て読み解くことは可能かもしれませんね」
「じゃあ、水無月さんはわかりますか?」
「どうでしょう。千尋君の足に描かれた魔法はもう消えているのでは」
「そうですけど、紙に書いたのを見せるのは問題ないんじゃないですか?」
いつもゆきが千尋に出題する。たまには、千尋から問いを投げてみたかった。少しでもこの人を驚かせたくて、千尋は紙に自分の足を治した魔法を記憶から書き写していく。
「湿布を貼るのに似てて、面白いですよね」
「……ええ、そうですね」
「最初、本当に入墨なんだと思ってちょっとショック受けました」
「それはないでしょう」
驚いていたせいか反応の鈍かったゆきが、ようやく笑う。
「基本的に身体に魔法を刻むことはありませんね。怪我をするたびに身体に模様が増えるのは、少し嫌ではありませんか?」
「……かなり嫌です」
「ふふ。そうですよね。それに、身体に魔法を刻めば効果は基本的に永続します。寒いからといって身体を温め続けたらかえって害になるように、得もそれほど無いのです」
止まない吹雪に覆われた町が頭を過ぎったが、一度それを打ち消すように千尋は書き上げた魔法――だったもの――をゆきに差し出した。ゆきは目を丸くしてそれを見る。
「足の模様は包帯で隠れていたのでは?」
「一度見れば十分なんです。……水無月さん、気付いてると思ってたんですけど」
「まさかここまでとは……。千尋君は、視覚情報に関して完全記憶能力を持っているんですね」
紙に再現された魔法を見て、ゆきは本当に驚いている声で呟いた。
千尋は一度その目で見たものを忘れない。自動販売機の並びから、一度買ったジュース缶の裏の商品表示。複雑な模様であっても――再現の巧拙は措いて――完全に記憶する。学校の試験のほかで役立った覚えはないが、ゆきの驚いたような反応は見られて良かったと思う。
「……羨ましいです、とても」
「そんなに役に立ちませんよ。頭が良いわけでもないので」
「書物魔法は非常に多くの模様、画材、製本方法を組み合わせて作り出す魔法です。腕の良い職人ほど知識は豊富といいますが、すべてを完全に記憶できているわけではありません。ですから大抵、新たに魔法を考える時は自身で書いた帳面や参考図書などをいくつも参照して、長考するものです。それでも記憶の引き出しから漏れた知識が盲点となることも多く……。ですから、千尋君のその能力は書物魔法士にとって間違いなく垂涎の代物ですよ」
ゆきは眼鏡を掛け直し、千尋の描いた魔法を眺めていた。もうすっかり書物魔法士の目になって、千尋はそれがなんだか酷く緊張した。まるで素人の自分が書いた魔法を茶化さず真剣に見られていると思うと落ち着かない。
しばらくして、ゆきは読み解いた魔法をひとつずつ千尋に教えた。これは何の魔法で、どれが力の調節で――そうして一通り話し終えたあとで「よく描けています」と微笑む。それで千尋は、心からほっとして嬉しくなる。
「……」
「ふふ、嬉しそう」
「……いま、馬鹿にしました?」
心の中を見抜かれたようで照れくさい。露骨に嫌そうな顔をする千尋を相手に、ゆきはにこやかだった。
「とんでもない。評価を喜べるのは、仕事に真摯であった証左です。私は誠実な職人が好きなので、千尋君にその素養があることが嬉しいんですよ」
「仕事でもないし、俺は職人にならない……」
唸るように千尋が言い返すが、ゆきはどこ吹く風だった。
「中途半端にした結果が絶賛されても、相手を騙しているような気分になりませんか?」
「どうだろう……騙してるっていうのは、すごく善意の考え方ですよね。俺はそんなに良い人じゃないから、『何も見てないんだな』って思いますよ。ああ、俺に興味ない人だ、って」
すみません、と千尋は続きを断ち切る。これでは「もっと自分をよく見て」と言うのと同じだ。だが真実そのとおりで、千尋は平気だと言うのを信じてほしかったし、触れないでほしいものは放っておいてほしかった。ただ、それを他人に曝け出してしまうのはあまりに幼い衝動だろう。
ゆきは静かに千尋へ視線を向けた。真っ直ぐ、笑うでも怒るでもなく真剣な顔をしているので千尋の背筋が自然と伸びる。小さな、しかしよく通る声が言葉を紡いだ。
「…………見ていますよ。私だけではなく……あなたを大切に思う人は、みんな彼らなりにあなたをよく見ている。あなたに余計なお節介をする人も、少なからずあなたを蔑ろにしているだけではないでしょうから」
それこそ、私のように。ゆきは少し決まり悪そうに笑って小首を傾げる。
そうだとしたら。千尋はうっすらと考える。
そうだとしたら、千尋を可哀相な子供にしようとした両親の頑なな態度の、あの聞く耳を持たない静かな暴力のような言葉の中にも、愛はあったのだろうか。長い冬のような学生時代を、ただ只管にやり過ごそうと決めていた千尋の信念の中にも、間違いはあったのだろうか。
2023.7.29更新分はここからです。
今回は3話分で、1章完結の区切りとなります。
そういえばと気が付いたので余談をひとつ。
千尋の誕生日は7月7日、ゆきの誕生日は2月1日に設定してあります。
それぞれの誕生花というものは一つに限られるものではありませんが、7月7日の誕生花には睡蓮が、2月1日の誕生花には梅が含まれるそうです。梅は多少ゆきのモチーフの一つとして胸に留めていた部分がありますが、睡蓮の方は意図せず符合したものでした。
この二人の誕生花が白い紙から生み出され、それぞれ魔法を宿した物語上の偶然にちょっとだけ喜びながら、最終コーナーを走っています。
一区切りまで、いましばらくお付き合いいただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。