天笠書房

魔導書工房の見習い日誌

11話 誰でも使える魔法

「雪?」

「……水無月さんが、一番綺麗だと思う雪を見せてほしいです」

「難しいことを仰るお客様ですね」

 僅かに困ったように笑ったゆきだったが、それでも諾と返す。承知いたしました、と恭しく言ったかと思うと、例の黒いファイルから切り絵をした後のような穴のあいた紙を取り出す。雪の結晶を基調として、複雑な文様が切り抜かれたそれは、よくよく見てみれば紙ではなく薄いプラスチックのような素材でできていた。

「ご用意がございます。これはステンシルシートといって、紙に重ねて上から塗りつぶすだけで複雑な模様を簡単に描ける優れもの。……インクの抽出も終わったようですから、仕上げに掛かりましょう」

 ゆきはフラスコに溜まった黒いインクを、まっさらなフェルトペンの芯に吸わせた。指先を汚すことなく、器用にペンを作っていく。

「千尋君、パンフレットの光る部分を見ていてください」

 ペンやインクをいじりながら、ゆきはパンフレットの一部を光らせた。そこを注視すると、写真の一部とごく近い色合いで細密な模様が描かれていることがわかる。はっと顔を上げたときには、ゆきはもうそれを模倣するためにペンを動かしている。

 時折紙に顔を近付けて、バランスを伺いながら、淡々と進む手に迷いはない。震えることもなく流麗に線を描く。ゆきは黒く長い髪を頭の後ろでまとめていたが、顔の横にかかる髪の房が落ちてくるのはやはり邪魔らしい。時折指で掬って耳に掛けた。

「……思ったより時間がかかりそうです。退屈させてしまいますね」

 ふと漏らされた言葉に、千尋は僅かに目を細めて目の前の景色を見つめる。

「いえ、見ているのが楽しいので」
「……楽しいですか」
「はい。職人技って感じがします」

 ゆきが吐息で笑ったような気配がした。俯いているので表情はよくわからないが、千尋はそれがどんな気持ちからこぼれた笑みかわからず、少しだけきまり悪そうに肩を揺らす。すると急にゆきが顔を上げて千尋を見た。思ったより間近に彼女の双眸があったのでたじろぐ。

「あの……」

「その通り。書物魔法は技術の結晶です。技術と言うからには、誰だって使うことができる……それを魔法と認めない人もいます。つまらないと見限る人も。それでも、あなたはその目で見つめてくれる」

「目……?」

「はい。新しい世界に心を躍らせ、宝物を見つけたように大切に。私は……千尋君が魔法を見る目が好きです」

 初めて人に真っ直ぐ「好き」と言われて、千尋は返す言葉がまるで見つけられなくなる。何度か口を開いては、また閉じる。そうしているうちに、ゆきは目を細めて言った。

「……言ったでしょう。その目にまた出会いたくて、私はあなたに会いに来てしまったんですよ」

 そうしてまたうつむき、手元の作業に集中する。千尋は彼女の言葉を反芻して、ようやく一言、呟いた。

「誰でも使える魔法なんて……あるんですか。魔法使いじゃ、なくなっても?」

 ゆきは一瞬手を止めたが、今度は顔を上げることなく「ええ」と返す。

「魔法道具というものをご存知ですか。魔力と魔法の組み込まれた道具で、使い手の魔力にかかわらず、魔法の効果を持っています。書物魔法も、書き手ではなくインクや紙に魔力を込めることができるので、誰かから、何かから、素材に移した魔力を使って誰もが魔法を紡ぎ出せる。それが書物魔法です」

 誰でも使える。ということは、千尋は記憶と魔力を失ったあとも、この美しい魔法を扱える「魔法使い」になれるかもしれないのだ。その事実に頬が熱くなったが、ふとゆきの手から生まれる魔法の正体に気付く。

 すっと引かれた曲線が、綺麗な左右対称だった。点を打つように、装飾めいた模様が書き足されていく。大きさも歪みもない。それは、誰にでもできることだろうか? ゆきの手から視線を外せないままで、千尋は言った。

「いま水無月さんが描いているものは……誰にでも描けるものじゃなさそうです」

 またゆきの手が止まる。ペンを持っていた人差し指が、とん、とん、とペンの軸を軽く叩く。何かを言い淀んでいるようだった。やがて、ほろりと零すように笑い声が聞こえる。

「……ふふ、そうですね。たしかに、修練は必要でしょうね」

「どのくらい、書いてるんですか」

 ゆきは大学で書物魔法を専攻していると言っていた。ならば、そう長くない時間の修練だったのかもしれない。しかし、彼女ははっきり「十五年」と答えた。

「十五年、書物魔法を学んでいます」

「十五年も……?」

「まだ十五年です。依然として私は師に及びません。ですが、それでも……私はあなたにこの魔法を教え授けることは、できると思います」

「えっ」

 誰でも使える魔法、という言葉に高鳴った鼓動が聞こえたのだろうか。千尋はにわかに喜びかけて、それから笑みの残った唇をぎこちなく動かした。

「……俺は、魔法使いには、ならない……ですよ」

 魔法で故郷を氷雪の中に閉じ込めておいて、誰が魔法使いになることを望めるだろう。千尋がどれだけ美しい魔法を使ったとして、あの白雪の町が千尋の魔法に影を落とす。翳りを作る。澱みを生み出す。だから、千尋はゆきに「教えて」とは言えない。

 いずれ忘れる。きっとゆきと出会ったことも、美しい魔法も忘れて、千尋はまた普通に生きていく。それが最善であり、唯一許されていることだと理解しているつもりだった。

 そうやって心に蓋をして、血が流れ出ないように守っている。だが、ゆきの魔法はその瘡蓋を剥がしてしまいそうな気がして、千尋はあわてて線を引く。ここから出ない、と決めて、ゆきとの間に線を引いたのだった。


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